夢見がちで穴だらけの「VRジェンダー論」と「性別の超越」という幻想

このツイートを見て「良いことを言ってくれた!」と思うような人(そんな人がこんなタイトルの記事を開くか?まあ反論のために開くかもね)が居たら、すぐさまこのページを閉じることをおすすめする。

VR元年と呼ばれた2018年から年が明け、アニメになったりCDが出たりイベントがあったりと、VR市場の話はどんどん拡大していくけれども、それらを用いた「バーチャル社会」の話は全く前に進まない。どころか、どんどん後退しているように感じる。

冒頭に貼ったツイートはその代表例みたいなもので、僕はVRCプレイヤーであった且つVtuberをやろうと目論んでる者であるので、フォロワーも当然その手の層の人が多く、こんな夢見がちなツイートが無尽蔵に流れてくるのである。

こんな記事一本書いたところで、夢見がちな言説を流す人とそれらを賛同と共感のスーパーRTをする人たちが即座に立ち振舞を変えるとは思わないけど、「これ以上酷い方に踏み込んで欲しくない」という意味で、色々書いていく。

 

予め言っておくが、僕は決してバーチャル世界でのコミュニケーションや関係性……そして恋愛なんかを否定するつもりは無い。そして、よくある「現実を見ろ」論に与するつもりも、断じて無い。むしろ、どんどんバーチャル技術が発展してVRオンラインゲームで遊べる世界が来たらいいな~~~~と思っている。アレに憧れないオタクはなかなかいないはず。だからこそ、だ。だからこそ、「バーチャル社会」がどうなっていくべきか――言い換えれば、「バーチャル世界を成立させる人間が、どのような価値観を共有していくか」に関しては、地に足の着いた議論をしていかなければいけないと思っている。そのためには、このような「理想論と現状認識がごっちゃになった意見」はむしろちゃんと批判していくべきだとも。

アバター時代の恋愛、もはや自分で振る舞うつもりが一切なくても相手から女の子に見えてしまうバグを抱えてるし、なんだったらヘテロ男性がお互いを女の子と思い込みながらお付き合いすることも可能になってしまったので、LGBTというくくりで性自認や性嗜好を語るのは非常に困難になってきた感じがある」

さて、まず一番クリティカルな揚げ足取りからいくと「LGBT性的少数者の権利運動ための連帯」であり、あらゆる性自認や性嗜好を括るための言葉ではありません。その認識なしLGBTという言葉を持ち込んで「非常に困難になった」とはおかしな話です。

LGBT」を汎用的な性的少数者を指す言葉と解釈して「アバター時代の恋愛はお互いを女の子と思いつつ好きあってるので性的少数者の括りでは語れない」と解釈しましょう。こう書き下すと「それって本当にそうか?」となりませんか。「女性の表象を纏って、お互いに相手の女性の表象を好いてる状態」は「レズビアン」あるいは「トランス」の括りからそう外れたものなのでしょうか?僕は全く異ならないと思います。

という風に、ちょっと頭を捻っただけでここまで反論がゴロゴロ出てきます。いや、別に新しい技術で頭の中がハッピーになった人が「こんなに新しい地点まで来てるんだぜ俺たちは!」と言い合うなら良いんですけど、この人「バーチャル時代の恋愛事情について生放送」とかやるタイプの人なんですよね。こんなそれっぽいワードを引っ張ってきた組んだような話が「代表的な意見」とされる世界って何?という気持ちがずっとあります。

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リプライで「学術的な放送になります」って言われてるけど、絶対ならねえだろ!?!?って思ってます。

これは私見なんですが、現時点で「バーチャル世界での何か」について語ろうとする人は「あらゆる人がアバターを着てバーチャル世界に適合していくべき」という視点で語る人が多すぎるんですよね。そして現状でVRに触れられる人は当然高額のVRゴーグルと高性能のパソコンを持って入ってくるほどの熱意と理想のある人だから、そのポジショントークを「そうあるべき」という気持ちで肯定してしまう。本当にいびつな「茶番」の世界だなと思ってます。

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これはVtuberパンツチャレンジという宣伝活動が流行った時に、Vtuber界隈の有名なフリーライターさんが発したツイートですが、このツイートが象徴するように、VR界隈では「魂の器」や「本質」みたいな論が素朴に信仰されています。僕は、こういう風潮を見る度に「けっ、くだらねえ」という気持ちになります。本当に「VRアバターが魂の器」であるなら僕は醜い、腐ったゾンビのような姿で呪詛を撒き散らさなければいけないことになります。なります、という言い方は変ですが、なると僕は思っています。そんな「内面を暴き出す」ような世界であるなら、生きられない人間の方が多いとまで思っています。だからこれも、「茶番」であるのです。VR界隈は、まさに「茶番」と「信仰」の世界であるのです。「可愛い・かっこいいアバターで他人と関係したい」という、醜くてエゴイスティックな欲望を皆で共有する社会です。

「魂の器」や「本質」に続いてVR論に出てくると言っても過言ではないワードが(上の生放送の紹介にも出てくる)「性別の超越」です。僕はこのワードこそまさにエゴイスティックさの象徴だなと思っています。これに関しては、昔はてなで起きた議論の時に書かれたエントリを紹介・引用しようと思います。

“かわいいい女の子になりたい”くらいで、安易に“性別を超越した”なんていうもんじゃないよ。 - 想像力はベッドルームと路上から http://d.hatena.ne.jp/inumash/20130304/p1

同化の対象が、男性が理想とする“かわいい”“女の子”である以上、それはある種の規範として抑圧性を発揮する。オタク男性が従来の男性ジェンダーから脱落しかけているからといって、その抑圧性が消えるわけでもない。男性が付与する“かわいい”という属性の抑圧性に無自覚でいるのならばなおさらだ。“ジェンダー規範から解放された男性オタク”という前提は、対象を気持よく消費するための“理想化された自己イメージ”に過ぎない。

こういった話を“俺(たち)の欲望語り”としてある種のネタ的に消費しているだけならまだ笑って流せるが、それが自分たちの欲望を肯定するための道具として、あるいは選民思想的な言説とセットで出てくるのであればさすがに笑えない。

オタクは性別を超越した”というのは単なる幻想であって、実際には性別など超えられてはいないし、ジェンダーからの解放もされていない。性的欲望を脱臭した程度でジェンダー規範から解放されたなんて思うことそのものが間違いだ。最低限の分別として、妄想と現実の区別はつけるべきである。

バッサリですね。まんまこれと同じことが繰り返されると思いますし、もっと言えばVRゴーグルによって「手応え」を得ることができるようになったせいでより悪化してるとも言えると思います。「現実の自分の肉体・環境に不満があって、それをなくしたい」というだけの話を「新しい技術を用いた性別の超越」と言い切るのは、大変傲慢なことだなあというのが感想です。

結局「魂の器」も「アバターは本質」も「性別の超越」もそうなんですけど、「現実の肉体は嫌だな~~~~」って話を格好良く言い換えただけで何も言い示してないんですよ。「このゲームでは誰もが勇者になれる」というキャッチコピーのゲームを遊んで「俺は勇者になった」という人がいたらどうしますか?アホですよね。身内間でアホになって楽しむのは自由ですが、その視点でそのまま「VRにおけるジェンダーや倫理観の展望」を語り始めるのはドン・キホーテと同じぐらい滑稽な行いです。

何度も言うように僕は個人が欲望を達成する手段の是非を問うてるのではありません。この記事を書いた後も、僕は美少女ドラゴンガールの表象で「愚かな人間のみんな~~~~ドラゴン系Vtuberの四部こまだぞ~~~~」って言うと思います(宣伝)。しかし、それは僕の本質でも魂でもありません。「男のVtuberって言うほど人気ねえし可愛い女の子でやりたいよね」という打算であり、欲望であり、願いであります。「世界がこうあって欲しい」という願いを叶えたいのなら、「いや~そうなってるのについてこない人は遅れてるよね」と意識を高くしたり「魂の器なんだからセクハラしちゃダメだよ!」と建前の上から語るのではなく、「我々はこのようにアバターアバター社会を定義し、このような権利を求める」と展望を打ち出し、連帯して人々に問うて行くことが必要だと、僕は思っています。

自分の中でもしっかりまとまってるわけでない話を読んでいただいてありがとうございました。反論や感想は(@Lacenaire_ssw)までお願いします。